F1優勝エンジンの設計者が示すキャリアの拓き方――“F1店長”松本正美さんインタビュー

松本正美(まつもと まさみ)さん
ホンダカーズ野崎 店長〈通称 F1店長〉/元 無限ホンダF1エンジン設計者

1989年に(株)無限へ入社し、F1エンジン設計チームの要としてピストンを担当。1996年モナコGPでリジェ・無限ホンダを初優勝に導く。退社後、野崎ホンダ(現ホンダカーズ野崎)へ転身し、販売累計3000台超のトップセールスとYouTubeチャンネル「F1店長」を運営。レース現場で培った徹底的な検証力と“0.1秒を削る”モノづくりマインドを、今日の顧客サービスにも活かしている。
「無限MUGEN」とは?
ホンダの創始者である本田宗一郎氏の息子である本田博俊氏が設立した会社。レーシングカーのエンジン開発や市販車のパーツ開発・販売などを行う。1992年~2000年までF1に参戦。1996年5月19日にモンテカルロ市街地コースで開催された「モナコグランプリ(1996 Monaco Grand Prix)」で初優勝。ドライバー「オリビエ・パニス」 チーム名「リジェ・無限ホンダ」

 

F1エンジン設計への執念――“採用しなくていい”と言った面接

――F1エンジンの設計に携わるようになった経緯を教えてください。

「無限」の入社面接の際、私は「F1のエンジン設計がやりたい。もしエンジン設計ができないのであれば、私を採用しないでください」と、今思えば生意気なことを言ってしまいました(笑)。それでも、とにかく無限でF1エンジンの設計をしたいという強い思いがあり、その熱意だけはどうしても伝えたかったんです。自分が採用担当だったら、こんな若造は落としていたかもしれませんが(笑)。
そんな私も無事に憧れの無限に採用され、1989年に入社することができました。しかし、最初の配属はF1レーシングカーの車体メカニックでした。「え?あれだけエンジン設計をやりたいって言ったのに、なぜ車体メカ?」と正直戸惑いました。

その理由は、ちょうど無限がF1初参戦に向けてエンジンテストを始めた時期だったからです。テスト車両が無限に到着し、憧れのF1レースエンジンを目にした時、初めて本物のF1エンジンに触れることができました。そのとき、ピストン(※1)の大きさに驚いたのを覚えています。「F1のエンジンって、こんなに大きくて重いのか」と先輩と話したほどです。先輩からも「松本もそう思うか?」と声をかけられ、分かっていたつもりでも強いインパクトがありました。

その後、当時の無限のナンバー2の上司から「F1のエンジン屋は車体を知らないとダメだ。車体のことをしっかり学んでから、エンジン設計に来なさい」と言われました。納得し、そこから3年間、車体メカニックの仕事に打ち込みました。1989年当時は世の中がバブルで盛り上がっていましたが、私は月100時間の残業が当たり前の日々。それでも必死でしたし、好きなことをして給料をもらえる幸せを感じていました。3年間みっちり車体メカニックとして学び、その後、念願のエンジン設計の仕事に就くことができたんです。

※1 燃焼エネルギーを受けて上下運動する部品。

松本店長 若かりし頃 サーキットにて

 

3人で挑んだV10――「無限」開発現場のリアル

――松本さんが担当していた開発について詳しく教えてください。

開発の現場は、埼玉県朝霞市にある「無限」の本社でした。F1のエンジン設計チームは専属がわずか3人。他にも組み立てを担当するグループはありましたが、エンジン設計を3人で担っていたと話すと、よく驚かれます。マクラーレンホンダやホンダ本体のF1エンジンチームでは30人規模でしたから。

無限では一からエンジン設計を行うのではなく、ホンダがもともと設計したV10エンジン(※2)を受け継ぎ、それを無限が改良する形でした。私が担当していたのは、エンジン部品の中でも要となる「ピストン」です。ピストン、クランクシャフト(※3)、コンロッド(※4)、はエンジンの心臓部であり、壊れたときの修復設計も非常に難しい部分。大学時代からエンジン設計を学んでいたので、ここに携わりたいという思いが強くありました。

 

特に情熱を注いだのはピストンの軽量化です。ピストンが軽くなれば、クランクシャフトやコンロッドも軽くなり、エンジン全体が軽量化できます。しかし、その分どうしても壊れやすくなります。レース中にピストンが壊れると、監督から電話がかかってきて「6台持ち込んだのに、フリー走行で2台、予選で2台壊れて、決勝用が2台しか残っていない。どうなってるんだ」と厳しい指摘を受けることもありました。設計上は問題ないはず…と答えても、何らかの不具合が出ている証拠。加工の問題か、素材の問題か原因がはっきりしない場合も多く、現場から電話がくることは稀ですが、そうした緊迫した状況も経験しました。ピストンは最も壊れやすい部品ですが、それだけに問題解決のやりがいも大きかったですね。

※2 10気筒ものピストンを搭載した高性能エンジン。F1ならではの圧倒的なパワーと美しいエンジンサウンドが魅力。
※3 回転運動を取り出す軸。
※4 ピストンとクランクシャフトをつなぐ部品。

入社したてのメカニックとしてフジテレビ『オールナイトフジ』に出演したときの写真

 

――幼い頃からエンジン設計の仕事に就くまでのヒストリーを教えてください

私の実家は、ホンダのバイクから始まり、やがて四輪車も扱うようになった典型的なホンダの車屋でした。私が生まれた昭和40年ごろはバイク屋で、小学生の1972年にはホンダ・シビックが発売され、ホンダが本格的に四輪参入したタイミングでディーラーになりました。初代シビックには、世界初のCVCCエンジン(※5)が搭載され、大きな話題になりました。新車発表の時には、たくさんの人が店に訪れたのを子ども心に覚えています。

とはいえ、私自身はバイクや車に特別興味があったわけではありません。高校生の頃、父がホンダのバイクを買ってきて、それがずっと駐車場に置かれていました。ある日、「これ何なの?」と父に聞いたら「乗ってみれば?」と言われ、実際に乗ってみると少し興味が湧いてきたんです(笑)。父の狙い通りだったのかもしれません。

そんな流れで徐々にバイクや車に関心を持つようになり、実家が車屋だったこともあって、大学は工学部機械学科を目指すように。高校時代は陸上部に打ち込んでいたので現役合格は難しく、一浪して芝浦工大へ進学しました。大学ではホンダのレーシングスクールに入り、サーキットで走る経験もしましたが、自分がレースをするというよりも、エンジン設計への興味が強くなっていきました。本格的に「無限に入ってエンジン設計がしたい」と思い始めたのは大学3年生の頃です。

就活を控えた大学3年にF1エンジンを設計したい思いからエンジン設計の研究室を志望しました。ちょうどその頃ホンダ第2期F1監督である桜井さんが大学4年でエンジン設計の研究室に入りレース用エンジンの開発が卒論であったことを知り、同じ道を歩みたいと強く思ったんです。最初はホンダに入社の希望でしたが、ちょうどその頃、自動車雑誌の記事で無限という会社を知りました。本田宗一郎さんの息子が社長でいずれF1エンジンの供給をしたいという記事を読んで無限への入社を決意しました。

卒業後、1989年に無限へ入社。入社直後は希望していたエンジン設計の仕事にはまだ就けず、最初の任務はN1仕様車(※6)の仕上げ。新入社員5人で3台のシビック(※7)を全て分解し、補強してまた組み立てる――そんなことを3か月間経験しました。部品を外すときに壊してしまうこともありましたが、非常に良い学びとなりました。

※5 当時世界で最も厳しいとされたアメリカ・マスキー法(自動車排ガス規制法)を初めてクリアしたエンジン。
※6 モータースポーツ用の市販車ベースのレース仕様車。
※7 ホンダが1972年から生産している世界的に有名な小型乗用車。

 

白煙の挫折が教えてくれた“壊れない設計”

――さまざまなトライアンドエラーがあったかと思います。心に残るエピソードがあれば教えてください。

F1エンジンの開発現場では、原因不明のエンジンブローに何度も悩まされました。エンジンが壊れると、ピストンは粉々、時には団子状になってしまい、非常に厄介です。当時F1エンジンは1基3500万円ほどで、家が一軒建つほどの価値がありました。そんな高価なエンジンが何度かブローし、どうしても原因が分からない。そこでレースモードでの耐久テストを一旦中止し、エンジンを分解して調査しました。調べていくうちに、コンロッドにクラック(亀裂)が入っていることを発見しました。

普通、クラックは弱い部分に発生するものなので、コンロッドに入るのは考えにくい。素材や組み立て工程を細かく検証した結果、「メタル合わせ」という部品同士のすき間(クリアランス)を調整する作業用のジグ(※9)に不具合があるのではないかと仮説を立て、部品を顕微鏡で観察してみました。すると、うっすらと筋が確認でき、そこからクラックが入っていたことが分かりました。顕微鏡でようやく特定できたこの原因究明は、とても印象に残っています。

当時私は無限ホンダのプロジェクトに参加しており、無限から1名、ホンダから4名の計5人で新エンジン開発を担当していました。ホンダは1995年から新しいエンジンを投入したいと考えていましたが、1994年のアイルトン・セナの事故(※10)をきっかけにF1のレギュレーションが変更され、排気量も3.5リッターから3リッターへ縮小。私が設計していたのは3.5リッターエンジンでしたが、急遽、5人で新しい規定に合わせたエンジンを設計することになりました。

私はゲストのような立場だったためか、周囲から「松本が設計するとエンジンが壊れる」と陰口を叩かれることもありました。しかし、顕微鏡でクラックの原因が組み立て工程にあることを突き止めて上司に報告すると、上司も一緒に怒ってくれて、「松本のせいじゃない、謝れ!」と陰口を言っていたメンバーに言ってくれました。それ以降、周囲の見る目も少し変わったように思います。

エンジン設計はホンダの中でも花形の仕事で、特にF1エンジンは多くのエンジニアが憧れる分野です。しかし、競争が激しく、思い通りにいかないことも多い。特に組み立て現場は「設計に舐められるな」という気概が強く、伝統的に対抗意識がありました。だからこそ、現場との信頼や連携を大切にしていました。

松本さんが開発に携わったV10エンジン

 

さらに、ピストンの開発でもさまざまな挑戦がありました。「これをやれば絶対に性能が上がる」というアイデアがあり、何度も提案したのですが、なかなか許可が下りません。どうしても諦めきれず、同期に頼んで内緒でテストしてもらったところ、やはり良い結果が出ました。今では絶対にできないことですが、30年前だったからこそできた“裏テスト”でした。自分のアイデアが正しいと証明できたのは、大きな自信になりました。

また、有名なエンジニアが論文で発表していた内容にも疑問を持ち、自分で計算・検証を重ねたところ、論文通りの結果にならないこともありました。エンジニアは疑問を持ったら、真実を追究したくなるものです。無限には、その挑戦を応援してくれる風土がありました。「これは絶対成功する!」と確信したことを実際に試させてもらえる環境だったのは、とてもありがたかったですね。疑問を実証し、真理を導き出す――それがエンジニアとして何よりも誇りに感じることです。

※9 製造・組み立て時に部品を固定し、位置決めするための専用器具。
※10 伝説的なF1ドライバーアイルトン・セナが、レース中のクラッシュで命を落とし、F1界に大きな衝撃を与えた。

 

記憶に残る製品と出会い――エンジニア人生を彩った瞬間

――エンジニアとしての活動の中で、最も心に残っている製品や出来事。人との出会いなどについて教えてください

無限が初めてF1で2位の表彰台に上がった1995年最終戦は、今でも強く印象に残っています。無限としては初の2位獲得。それだけでも感動的でしたが、残り4周というところでマシンが白煙を上げ始めたんです。すぐに「これはピストンに穴が開いたな」と思い、壊れるのではとハラハラしながら見守りました。もしエンジンブロー(※10)したら、また自分が責められるのでは…そんな不安もありました。

それでも、マシンはなんとか走り切り、2位で表彰台に上がることができました。本当に嬉しい瞬間でしたが、喜びだけでは終われません。白煙の原因を突き止めるため、レースが終わるとすぐにエンジンを日本に戻して徹底的に解析しました。分解してみると、エンジンはまさに壊れる寸前。クラックだらけで、あと数十秒か数分遅かったら、確実にブローしていた状態でした。ゴールできたのは奇跡のようなもので、分解した時には、皆で拍手が起こりました。

「やっぱり穴が空いてる!」と皆で盛り上がりつつ、私は「俺が測温(※11)します!」と宣言して解析に取り組みました。測温データからどこまで熱が上がっていたのかを調べ、さらに詳しい解析のために無限からホンダにエンジンを持ち込んで調査。2位表彰台からのエンジン解析――これがエンジニア人生で最も心に残る出来事のひとつです。

※10 エンジンが破損して動かなくなること。
※11 エンジンや部品の温度を計測すること。

当時のF1チーム

 

――優勝した時のレースはどんな思い出がありますか?

1996年のモナコグランプリでの優勝は、まさに忘れられない思い出です。しかも、レースは雨の中で行われました。予選は14番手と低迷し、異物を噛み込んでプラグが失火(※12)し、思うようなタイムも出せず苦しい状況でした。それでも決勝の朝のウォームアップでは初めて1位タイムを出すことができ、「これはいけるかも?」とチーム全体に前向きな雰囲気が生まれました。

とはいえ、モナコは何が起こるかわからないコース。予選14番手からスタートし、どんどん追い上げていき、残り数周で「もしかして本当に勝てるんじゃないか」とひとりで盛り上がりました。夜中、自宅でテレビ観戦していた時も、妻が起きてきて「どうしたの?」と声をかけてきたほど。私も「勝っちゃうかもよ?」と答え、最終的に本当に優勝。F1中継は深夜1時から3時まで放送されていたので、レース終了後、妻と2人でビールで祝杯をあげました。

自分が設計したエンジンでF1優勝することは、ずっと目標にしてきたことでした。実家の父からは「遊んでないで帰ってこい」と何度も言われていましたが、「F1エンジンの設計をやってる。優勝するまで俺は帰らない」と言い続けてきました。それが思いのほか早く、1996年に優勝という形で目標を達成できたんです。

その頃ちょうど、ホンダのエンジン開発部門が埼玉県和光市から栃木に移転するタイミングでもありました。私はエンジンの要となる部品を担当していたため、この機会を逃すと次はなかなか退職できなくなるのでは――そんな思いもありました。大きな目標を達成したことで、「やりきった」という気持ちも強く、そのときは続けるという選択肢はありませんでした。

※12 エンジンの「スパークプラグ」がうまく点火しないトラブル。

松本店長 F1優勝時

 

『F1店長』誕生――勝利と転身の舞台裏

――どのような経緯で現在のホンダカーズの店長というお立場になられましたか?また、F1エンジンの開発をしてきたことが、現在の仕事にどのように反映されていますでしょうか?

無限を退職して埼玉県のホンダディーラーで2年間営業として勉強さし、ホンダの営業研修もそこで受けたんです。最後は月20台くらい販売してトップ営業マンの地位を築きました。2年が経過し、実家のホンダプリモ野崎(当時)に戻ったのですが、店長不在、営業マン不在の店舗でしたので私がいきなり店長兼営業をやることになったんです。その後ホンダの店長研修や後継者研修も受け、整備士の研修も受けてホンダ1級整備士の資格も取得しました。

F1エンジンの設計や開発に携わり、初優勝を実現できたことは、私にとって大きな誇りです。その経験は今の仕事にも最大限活かしているつもりです。ちなみに、名刺には「F1店長」という肩書きを使っていますが、初めて会う方には「F1が好きな店長なのかな?」と思われることも多いですね(笑)。

実際、一般ユーザー向けのホンダ車のエンジンオーバーホール(※13)も自分で手掛けていた時期がありました。自宅にログハウスを建て、「エンジン組み立て部屋」を作って作業していたほどです。無限時代の仲間やOB、サプライヤー(※14)さんたちの協力を得て、F1エンジン並みの精度でオーバーホールを行っています。エンジンの組み立て方はF1も市販車も本質的には同じ。一般的なディーラーでは揃わない測定器具やノウハウも活かし、「ここまでできるのはうちだけ」と自負しています。

※13 エンジンを分解して点検・修理し、新品同様にする作業
※14 部品や素材を供給する会社。

 

――ものづくりに興味がある若者に対して、モノづくりの魅力を教えてください。

私がやってきた「ものづくり」はエンジン設計でしたが、最大の魅力は、馬力や性能、軽量化など“結果が数字で表れる”ことにあります。没頭して作業しているときは、その目標に向かってひたすら工夫と試行錯誤を重ねます。どうやったらピストンをもっと軽くできるか、馬力を高められるか。数値目標を決め、それを達成した瞬間の達成感、さらにそれを実際の“カタチ”にできた時の満足感は、ものづくりの醍醐味だと思います。

F1という世界最高峰の舞台で、コンマ何秒のために仕事を重ねてきました。当時の無限の専務が「レースはお金をかけた大人の喧嘩だから、絶対に負けるわけにはいかない」と言っていたのが印象に残っています。新入社員時代にこの言葉を聞き、「絶対に負けちゃいけないんだ!」と強く感じたことを今でも覚えています。

そうした環境でモノづくりを続け、優勝という結果を出せたことは、自分の中でも大きな自信になりました。その誇りがあったからこそ、F1を離れた後もずっと頑張ってこられたのだと思います。ものづくりの現場に立ち続けられる人は、本当に幸せだと感じますし、開発責任者や管理職になると“調整”の仕事が増えますが、それでもものづくりに没頭した経験が今の自分を支えています。

――最後におすすめの書籍を教えてください。

『F1 地上の夢』(海老沢泰久・著/1987年2月1日) です。この本に大学時代に出会い、レースの世界に強く興味を持つきっかけとなりました。人生をかけてモータースポーツに関わった人たちの姿が描かれていて、自分にとっても忘れられない一冊です。もしこの本を読んでいなければ、無限に入り、F1エンジンの設計に携わることもなかったかもしれません。人生を変えてくれた本です。

 


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