氏原さんは大学院修了後、化学会社で20年以上、殺虫剤の開発などに当たってきました。そして2019年にはAI技術の研究開発を専門とするベンチャーに転じ、その後22年から、三井物産が設立した、AIやシミュレーションなどの最新コンピューター技術を活用し創薬の基礎研究を行う、株式会社ゼウレカに勤務しています。氏原さんの興味の向かう先は日本の化学×AIの最先端。だからこそ、50歳を前にして大胆なキャリアチェンジを図ったのです。その挑戦意欲はどこから来るのでしょう。じっくり伺ってみました。
北海道大学理学部〜同大学院を通じ、天然物有機化学を学び、93年に大手化学メーカーの住友化学に入社。26年もの間、主に蚊取り器や衣料防虫剤の有効成分の開発を手がける。その間にも、04年には東京大学から農学博士号を授与され、07年から09年にかけては、スタンフォード大学化学科の客員研究員として有機合成の研究にも従事。学会でも認められる化学分野のスペシャリストながら、学生時代からプログラミングにも携わり、いくつかのアプリを開発し受賞歴もあるというオールラウンダーだ。
研究のルーツには楽しさがあった
――化学に目覚めたきっかけはどんなことからでしょうか?
氏原:小学生の頃から算数は得意でした。幾何の問題など、どこに1本の線(補助線)を引くかで解が求められる。単純に美しいと思ったんです。僕は名古屋出身で、中学高校と私立の東海に通っていましたが、部活の顧問がたまたま化学を教えていたので、若干は影響されたかもしれません。理系の学部に進もうとは思ってはいましたが、大学はともかく行けるところに行く、というのが今でも変わらない高校生の実情じゃないかなぁ。
――というと、化学を意識して大学を選んだわけではない?
氏原:広大な北海道に憧れがあったので北大に進みましたが、専攻は2年次に決めるんです。一般教養の講義での教授の話が楽しく、天然物有機化学を専攻しました。有機化学の一分野ですが、世の中のなぜが満たされている学問です。例えば欠乏すると病気になる物質ってありますよね。ビタミンB1が不足すると脚気になるとか。逆に病気になると生成する物質もあってそれを利用して病因を突き止められるようになったりする。さらに、それら本来は天然からしか得られない物質を人の手で作ってみよう、さらには天然物より優れたなにかを作り出そうという学問です。
――聞いているだけでワクワクしてきますね。
氏原:たとえば蚊取り線香は除虫菊に含まれる成分のピレトリン類と呼ばれる物質が有効成分です。しかし、殺虫剤として常に理想的な性質を持っているわけではありません。また農産物に頼っているので供給は不安定です。それらの問題を解決するための多くの試みが数十年にわたって続けられ、ピレトリンを模倣した合成ピレスロイドと呼ばれる多くの化合物が発明されてきました。今では、農業、公衆衛生、家庭防疫など多くの分野で使われています。皆さんの身の回りでも多くの合成ピレスロイドを使った製品があると思います。
――住友化学は氏原さんが大卒後、就職された会社。どんなご縁があったのですか?
氏原:隣の研究室に住友化学から派遣された研究員の方がいらっしゃいました。先輩にも社員がいて、リクルーティングされました。そして、配属された部署が殺虫剤の開発をしていました。もちろん、大学で学んだ有機合成化学の実験をする毎日でしたが、それだけでなくもともとコンピューターについての知識を持っていたこともありデータベースの構築を手伝い始めました。
――お陰でパソコンには強かったと。最初にパソコンに触られたのはいつですか?
氏原:最初に触ったのは小学生のときです。高校の部活は電波科学研究部マイコン班でした。そこではマイクロマウスという マイコンを搭載した自律制御ロボットで迷路の中をゴールまで走らせる競技に参加しました。優秀な人たちがたくさんいて、大会では上位で入賞することもありました。部員は理系で占められていましたが、その後の進路は電気情報系だけでなく多様な分野に進んでいきました。医学部進学で知られる学校ということもあり医者になった人も多いです。
――では、その頃からプログラミングを?
氏原:ええ。大学の先輩に紹介された札幌でのバイト先はダットジャパンといって、当時は小さなデータベースソフトの会社でしたが、その後、マルチメディアや建設・土木業界向けのソフトウェア開発に乗り出し、私が卒業した時にはかなり大きくなっていました。中でも90年に発売された天文シミュレーションソフト「HYPER PLANET」は国際映像グランプリで通産大臣賞受賞をしました。もちろん何人かがかりでプログラミングしたのですが、プラネタリウムの部分のプログラミングは私がやりました。当時のPCの能力はそれほど高くなかったのでアセンブラでプログラミングすることが今と違って重要だったのですが、すぐに対応できたのはマイクロマウスのプログラミング経験が生かされたのだと思います。
――大ヒットだそうですね。
氏原:他にも将棋ゲームやデータベースなどのプログラミングをしましたが、多くの大企業が出展している中で小さなベンチャー企業に最高の賞が与えられたことは感慨深いものがありました。また、富士通様とともに会議や営業をしたり、わずか数人のスタートアップがどんどん大きくなる過程を内側から見たりできたのはかけがえのない経験でした。
世の中のニーズに追いついていたい
――ある時期まで札幌は日本のシリコンバレー、略して「サッポロバレー」と呼ばれていましたね。氏原さんも当時のその空気を肌で感じていたのでしょうか。
氏原:さぁ、どうだか。まだ電子メールもない時代で、1993年に住友化学に入社しましたが、個人がPCを持つのが当たり前になるのはWindows95発売以降ですよね。報告書などもまだ手書きで作成していましたし。実は就職してからも趣味的にプログラミングは続け、GetIPDLという世界の特許電子図書館から資料をダウンロードできるシェアウエアも作っています。01年の公開以来、日本だけでなく海外でもかなり売れたんですよ。そのほかにPDF編集のフリーソフトも作り、これも反響が大きくVectorの年間総合ダウンロードランキングTop100に入りました。この過程で、海外の方を含めて多くの方々と交流することができました。
――そんな域にまで到達しながら“趣味”ですか?
氏原:世の中で必要になってきたから覚えたい、というのがまずあります。Java、C#、Pythonなど必要に応じて多くのプログラミング言語を習得しました。みんなおよそ独学です。
――氏原さんからは、「化学者×プログラマー」というよりも、プログラマーが化学研究をする、との印象を受けます。
氏原:化学ではデータを取ってまとめ、解析もするので、プログラミングでそれら作業を自動化できる点は大きいですね。コンピューターがそれだけ発展したからこそ可能になったわけですが。
――そこでAI創薬プラットフォーム開発、並びにそれを使用した化合物設計をする、現職ともつながってくるのですね。しかし、四半世紀以上勤めた、“大樹の陰”から抜け出すのには勇気が要ったのでは?
氏原:住友化学は大きな会社で、だからこそできることも多い。商品化された2つの化合物の発明を主導する立場となり、それらは今も店頭に並んでいます。一方、自分のアイデアが採用される場面もありましたが、そのアイデアが有用であることのエビデンスが集まるまでにはなかなか理解を得られなかったなどそのぶん苦労も多く、次第に社内環境が自分のキャリアと合わなくなったと感じていました。その点、今の会社は小規模なこともあり、風通しはいいです。
AI最先端ベンチャー入社が転換点
――そして、19年にAI技術の研究開発に特化したPreferred Networksに移られた。どのような会社なのでしょうか?
氏原:半導体から、計算基盤、AIモデル、アプリケーションまでを垂直統合して自社開発する日本を代表するユニコーンです。人材もコンピューターサイエンスに限らず、いろんな分野から集まっていて、非常に勢いを感じました。
――ヘッドハントされての転職、それとも募集に呼応したのですか?
氏原:有機化学とコンピューターサイエンス両方の知識を持つジョブの募集を見かけたので応募して採用されました。そこではリサーチャーとして約3年勤め、AIを用いた創薬ライブラリーの開発、新型コロナウイルスのMpro(メインプロテアーゼ)阻害剤や新規の除草剤のベースとなるリード化合物(薬の候補)の創製に携わりました。
――そして、現在所属するゼウレカに移られたわけですね。
氏原:創業直後の22年9月入社だから、もう3年以上経ちます。自分が今では最古参の社員です。三井物産出身の方に紹介され、すぐ決断しました。製薬企業ならびにCRO(開発業務受託機関)事業者向けのAI創薬支援サービスに徹するということで、と自分向きだろうと思いました。前の職場は今では300人規模ですが、弊社は20名ほどでこぢんまりとしてよりコミュニケーションは取りやすくなっています。
――AI創薬は多くの人にとって未知の領域で、とても難しそうに響きます。そもそもどういう背景で生まれ、また、現状はどうなっているのでしょう?
氏原:それこそ難しい質問かな。AIの回答ではどうなっていますか? まず従来の創薬では、1つの薬を世に送り出すのに10年から20年は要し、コストも数百億円は見ておかなければなりません。それがAIの導入によって開発の期間は劇的に短縮し、さらに、これまでの方法では発見しえなかったような創薬ができるようになると信じ、日夜努力しています。たとえば、2024年のノーベル化学賞はタンパク質の構造予測プログラム(AlphaFold)の開発に与えられました。従来、タンパク質の構造の解明は研究者が時には何年もかかって取り組むような課題でした。それが今では秒~分で予測を出すようなプログラムが誰でも使えるようになっています。ほんの1年前は専門家でも夢物語と思っていたようなことが、今はだれでも手軽に使って結果を手にできるようになっているということが現実に起きているのが今の世界です。
――確かにそうでした。では現在、注目している技術などはありますか?
氏原:量子コンピューターと申し上げたいところですが、省電力技術に注目しています。AIと身近に接していると、それが使う電力が凄まじく、これをなんとかしないと次のステップにはいけないのかなと思い注目しています。
旅をしながら働く、悠然の境地に
――ところで、今回の取材は東京のゼウレカのオフィスでお受けいただきましたが、月1-2ペースでの出社とのこと。リモートメインでお仕事されているのですか?
氏原:はい。会社から融通をきかせてもらって、自宅の宝塚(前々職の住友化学の健康・農業関連事業研究所の所在地)からリモートで働かせてもらっています。移動が大変なのではと言われることもありますが、趣味が旅行ということもあり苦になっていません。ゲストハウスやミートアップなどで外国人旅行者を含むいろいろな人たちと交流したり、オープンマイクイベントで演奏したりして楽しんでいます。
――文字通りのノマドですね。では最後に、AI時代にエンジニアを目指す人がすべきことはなんでしょうか?
氏原:最近は大卒・院修了後すぐ、ベンチャーに入ったり立ち上げたり、といった若い人が多いですよね。逆行的な話をするようですが、もしチャンスがあったなら、仮に起業志望でも、一度は大企業に勤め、世の中の仕組みを知るべきだと思います。大企業は積み上げてきた歴史のぶん一見無駄そうに見えるが必要な仕組みができている。それをいながらにして学べることも多いでしょう。AIはエンジニアの職さえ奪うと言われていますが、定型的な作業をしている限り、そうなってもおかしくはない。クリエイティビティとタフさを身につけるためにも、大きな会社の中で泳いでみるのもアリです。また、自分たちや先輩世代で、学びを早く止める人が多いのが気になります。ともかく学び続けることが大切なんじゃないでしょうか。
■おすすめの書籍
『北の国から』全3巻(理論社)
1981年から21年もの間、断続的に続いた人気テレビドラマシリーズの原作シナリオ本です。僕は放送当時、あまりテレビを見なかったこともあり、世代なのにほとんどドラマを知らないんです。大学進学で北海道へ来てから読んでみると、北の大地で生きる人特有の暖かさとか不器用さとか、本当によく描けているんですよね。東京から帰郷し、富良野の大自然の中、廃屋を修繕して暮らす黒板五郎と2人の子どもたちのストーリーですが、不便さの中にも生き甲斐を見出していく過程に共感できました。今の僕の原点はやはり北海道にある、そう思い起こさせてくれる作品でもあります。

