挽野元さんは、1992年に日本ヒューレット・パッカードに入社後、同社の執行役員や取締役を歴任。その後ボーズ(Bose)社長を経て、アイロボット ジャパン社長に就任し、ロボット掃除機「ルンバ」の国内世帯普及率を10%へと倍増させました。そして、2026年2月にはケルヒャー ジャパン(以下、ケルヒャー)の代表取締役社長に就任。20年以上にわたり、グローバル企業の日本法人トップを務めています。「未知の技術を日本市場へ翻訳する」エヴァンジェリストのキャリアを歩んでこられた挽野さんに、生成AIの台頭で平均的なエンジニアの淘汰が叫ばれる今、替えの利かない人材として生き残るための心構えや、キャリアを拓く“縁”の本質について伺いました。
1967年横浜生まれ。武蔵工業大学大学院(現・東京都市大学)で超音波工学を専攻、修了。日本ヒューレット・パッカード(HP)を経て、ボーズ(Bose)やアイロボット(iRobot)など外資系企業のトップを20年以上歴任。高級スピーカーやロボット掃除機「ルンバ」など、前例のない技術を地道な流通改革によって日本市場に根付かせてきたプロ経営者。2026年2月にケルヒャー ジャパン代表取締役社長に就任。長年外資系日本法人のトップを務めながらも、50代で再び大学院の門を叩き、年下の指導教官から徹底的な指導を受けるなど、飽くなき向上心を持ち合わせる。
キラープロダクトを社会に届ける「流通改革」と「体験」
――挽野さんはボーズやアイロボットなど、さまざまな企業で売り上げを伸ばすだけでなく、「市場そのものを広げる」仕事を一貫してされてきました。先進技術や製品を日本市場に普及させていくために必要なアプローチとは、何でしょうか。
挽野元氏(以下、挽野):私自身のキャリアを振り返ると、運が良かった面も多分にあります。2013年にボーズ(Bose)の社長に就任した際も、入社直後に2つの素晴らしいキラープロダクトに恵まれました。
1つはインイヤー型ノイズキャンセリング製品「QuietComfort(クワイエットコンフォート)」、もう1つは小型Bluetoothスピーカー「SoundLink Mini(サウンドリンクミニ)」です。当時は、音楽を聴くスタイルがモバイルやストリーミングへと移り変わる潮目でした。頭の上にかぶせる大きなオーバーヘッド型が主流の時代に、お客様がボーズ(Bose)の圧倒的な性能を持つインイヤー型を待ってくださっていた。その市場の期待感に応えられたのが大きかったです。
ただ、いくら優れた商品があっても、従来の販売チャネルに頼るだけでは届きません。量販店、直営店、オンラインといった「流通戦略」自体を変革しなければならなかったんです。メリハリをつけながら新しい流通網をつくり、製品のポジショニングを確実なものにしていきました。
――製品の認知だけでなく、売り方そのものを変えたわけですね。ルンバの普及においても同様ですか。
挽野:まったくその通りです。これらはライバル製品と比較すれば価格帯が1ランク上のものですから、やはり「体験」が非常に大事になります。いくら動画で見ても、実際の使用感を確認できないままでは購入の決定には至りません。
ですから、最終的にオンラインで購入されるお客様であっても、売り場や現場で体験してもらう機会をいかに設けるか、その空間をどうデザインするかという、売り場設計への関与は極めて重要です。実際に触って納得してもらう空間を作ることが、市場を拡大するための根幹にあります。
「作業」はAIに淘汰される。いま必要なのは「本質思考」と「問いを立てる力」
――現在、AIや大規模言語モデル(LLM)の台頭によって、IT系の標準的なエンジニアの仕事、いわゆるテンプレートにはめていくような仕事は淘汰されつつあります。エンジニアが生き残るためには、何が求められるのでしょうか。
挽野:ひたすら自室にこもってコードを書いているだけのような「作業」の側にいる人たちは、正直なところ淘汰されつつあると思います。人間は同じことを繰り返しこなす方が楽ですから、つい「作業」に流れてしまいがちです。そうすると1日の時間が単調にあっという間に過ぎ去って、本人は何かを「やった気」になってしまうのですが、それはAIに代替されてしまう領域なんですね。自分のやっていることは「作業」なのか「仕事」なのかという峻別を、若い頃から意識して見極めなければいけません。
これからの時代、企業が求めている人材は、技術に強いだけの人間ではなく、間違いなく「課題設定ができる人」です。課題を設定でき、正しい問いを常に考え続けられる力こそが必要とされています。
AIを使いこなすうえでもプロンプトの与え方が大事だといわれますが、明確な目的意識やゴール設定という「正しい問い」をこちらが提示しないと、とんでもない迷走を始めてしまい、仕事ではなく単なる「作業」を増やすことになってしまいます。
エンジニアの皆さんも、「何のためにやっているんだっけ?」という本質的な問いを常に忘れてはいけません。「世の中の役に立つため、あるいは生活をより豊かにするにはどうしたらいいか」という本質思考を持って、リアルな課題を解決するために問いを発し、そのうえでAIを使いこなしていく力が、今まさに必要とされていると感じます。
――言われた仕様通りにコーディングするだけでは、「作業」のままで終わってしまうと。
挽野:例えば業務システムや経理ソフトのプログラミングを任されているとして、ただ言われた通りのシナリオをなぞるだけなら、そこ止まりで革新は起こせません。
しかし、「なんでこんなに同じインプットを何度も手入力でやらなきゃいけないんだろう?」と、実際にシステムを使うバックオフィスのメンバーの不便さに気を回すことができれば、新しい提案やアプローチが見えてくるはずです。
最終的にそれを使っているエンドユーザーやお客様が誰で、その人たちの何の役に立っているのかを常に想像し、課題を設定する思考を持つことが、エンジニアとしての市場価値を決定づけるのだと思います。
言語化の壁に挑む「学び」と、教える立場としての気づき
――キャリアの幅を広げるという意味では、挽野さんご自身も近年、大きな学び直しを経験されたそうですね。
挽野:はい。実は私は3年前に大学院(社会構想大学院大学・実務教育研究科)に入り直して、もう一度修士号(マスター)を取得したんです。社会人が自分の実務経験を他者に教えるための方法などを研究する専門職大学院で、私自身も人に教える立場として、一度しっかりと言語化の勉強をしておきたいという思いがありました。
――長年トップマネジメントを張ってきた挽野さんクラスの経営者が、改めて学生として指導を受けるというのは、相当なギャップがあったのでは?
挽野:いやあ、これが本当に苦痛な空間で(笑)。自分がこれまでやってきた実務経験や、自分にとっては当たり前だと思っている事柄を説明しようにも、若い学生など他者にまったく伝わらないんです。
それを2年間、私よりも20歳も年下の指導教官から「これだと挽野さんの主観でしかないので、客観的に書いてください」などと徹底的に指導され、禅問答のようなやり取りを繰り返しました。言葉の定義をきちんとしなければ相手には絶対に伝わらないという、言語化の大事さを痛感させられた、とても苦痛で、しかし大きな学びとなった経験です。
――成功体験をそのまま語るだけでは、教育や客観的なノウハウとしては成立しない、という過酷な気づきを得た。その大学院での研究テーマが、まさにキャリアの転機に関わるものだったそうですね。
挽野:はい、『コンフォートゾーン(快適で居心地の良い空間)から外される体験と、キャリア自立の関係性』というテーマで論文を書きました。
簡単に言うと、会社命令による異動や出向、あるいは理不尽な環境下など、自分の意図とは異なる形で、居心地の良い空間から無理やり引きはがされたとき、人間は戸惑いや葛藤を感じながらも、嫌でも一生懸命考え、知恵を出さざるを得なくなります。
その結果として、自分が大きく成長する場合もあるし、客観的に自分の向き不向きに気づく場合もある。つまり、コンフォートゾーンから外される未知の体験こそが、極めて大きな「学習機会」になるということです。
振り返れば、私の20代の原点もまさにそうでした。日本HPに入社してまだ2年目の頃、当時の上司からいきなりアメリカ本社へ行って、大きな会議でプレゼンをしてこいと放り込まれたんです。当時は今ほど英語が堪能だったわけでもなく、コミュニケーション能力があったわけでもありません。必死に徹夜で準備して、現地で質問されてもその場では全く答えられないから、後で文章をメールで送ってもらい、アフターフォローするのが精いっぱいでした。
周りに助けてくれる人が誰もいない修羅場に立たされ、火事場のばか力を発揮する場数を踏んだからこそ、人は知恵を絞って乗り越え、それが強固な経験値となっていくんです。ですから、普段使わない頭の使い方をする刺激的な環境や、一見理不尽に思える変化を忌避せず、むしろ自分のキャリアを客観視するための絶好の機会として利用してほしいと思います。
「リアルワールド」にこそ、エンジニアをインスパイアする原点がある
――挽野さんは日本HP、ボーズ、アイロボット、現在のケルヒャーに至るまで、一貫して「リアル空間のビジネス」に身を置いて経営をしてこられました。デジタル全盛の時代において、あえてリアルな空間にこだわる面白さは、どこにあるのでしょうか。
挽野:おっしゃる通り、私は2006年以降の約20年間、基本的には「リアル空間のビジネス」を主戦場としてきました。日本HPの最後に携わったプリンティング事業も「紙」、ボーズの音響もスピーカーのコーン紙の振動、ルンバも物理的に部屋をきれいにするロボットです。新しく就任したケルヒャーもまったく同じで、工場や倉庫、ホテルにおける物理的な清掃という仕事は、絶対に世の中からなくならないリアルな仕事です。
多くの人がデジタル空間やPCの画面の中に没入して生活しているように見えますが、本質的に人間はみんなリアルを生きています。だからこそ、そうしたリアル空間を、ハイテクなITのサポートによっていかに暮らしやすくしていくかというビジネスには、ものすごい深みと広がりがあるんです。
――現場のリアルな困りごとに直結しているからこそ、想像力が働きやすいと。
挽野:その通りです。例えば、当社の清掃機器を扱うエンジニアたちは、対人コミュニケーション能力が非常に高いです。なぜなら、養鶏場や工場といった「リアルワールド」へ実際に出向いていき、製品のトラブルで困っているお客様の生の声を直接聞きながら、対話をしてマシンを元通りに直すという役割を担っているからです。現場でお客様と向き合い、顧客インサイト(潜在的な要望や課題)が何であるかを観察・想像しながら製品やサービスを仕立てていくエンジニアは、市場価値が非常に高くなります。
もし画面の中だけでゲームを作っているようなエンジニアであっても、その原点は必ずリアルな世界の反映や歴史にあるはずです。アイロボットの創業者であるコリン・アングルも、アリのような生き物がなぜこれほど見事に歩き、自分より大きなものを運べるのかという「虫の観察」に対する純粋な好奇心から、ルンバの技術を導き出しました。
壁に突き当たったら、オフィスから外に出て、子どもの時のように虫を追いかけたり、あるいは飛行機が飛ぶのをただ眺めていたりするような“原体験”を思い出してほしい。外に出てリアルな世界を観察する時間を少し設けるだけでも、エンジニアの中に眠る想像力や「問いを立てる力」は劇的に変わるはずです。
流れが悪いときこそ腐らず、パワーを蓄えて「次の潮目」を待つ
――挽野さんは、日本HPからボーズ、アイロボット、そしてケルヒャーへと、引き寄せられるように転身を遂げられてきました。こうしたキャリアを可能にする人間関係の構築や、転機における身の処し方について教えてください。
挽野:私はよく「縁を大事にする」と言うのですが、これは昔ながらのコネではなく、過去に一緒に仕事をしてきた仲間たちと自然発生的に、ゆるくつながり続けるということです。いわゆる「弱い紐帯(ちゅうたい)」(※)ですね。
私がボーズに移ったのも、日本HP時代の仲間で、たまたまボーズのヨーロッパ責任者になっていた友人と寿司を食べながら「実はこういう話があるんだけど」とゆるく話を交わしたことがきっかけでした。また、アイロボットへの移籍に関しても、ボーズで開発責任者をしていた仲間がアイロボットに移り、彼から「新しく日本法人を立ち上げるから」と声を掛けてもらったのが始まりでした。
一目置かれる実績を残すことはもちろん前提ですが、それ以上に、これまで関わってきた仲間たちとたまに食事をしたり、連絡を取り合ったりという小さな積み重ねが、新しいチャレンジへのご縁を引き寄せてくれるのだと思います。
※家族や親友のような強固な人間関係ではなく、知人や元同僚といった緩やかなつながり
――しかし、キャリアのすべてが順風満帆だったわけではないですよね。時には理不尽な状況や不遇の時期もあったのではないでしょうか?
挽野:もちろんです、挫折や悔しい思いは数え切れないほどたくさん味わってきました。日本HP時代にアメリカ本社への異動を希望して現地の面接まで受けたものの、結局採用されず、ポジションが得られないまま忸怩たる思いで日本に帰国したこともあります。アジア人としての見えない壁のようなものを感じて悔し涙をのんだこともありました。ボーズ時代の最後の1年も、自分の上司と戦略的な考え方がどうしても合わず、最終的にメインの仕事から外されるという、非常に悔しい経験をしました。
長い人生、常に良い波が来ているわけではありません。そうやって「ああ、今は人生の流れが悪いな」と感じる時期は誰にでも必ず訪れます。そのときに絶対にやってはいけないのは、自暴自棄になったり、衝動的に動いて爆発してしまったりすることです。そういう動きは往々にして、結果をさらに悪化させます。
流れが悪いなと思ったら、焦らず、今はパワーをためる試練の時期だと捉えることです。少し新しい勉強をしてみたり、日々のやるべき仕事を淡々と一生懸命にこなしたりしながら、じっと潮目を見る。腐らずに我慢して日々の仕事に向き合っていると、必ずどこかで「ご縁」という名の新しい流れがふっと現れる瞬間がやってきます。不遇の時期の過ごし方こそが、次の大きなジャンプへの助走期間になるのだと思います。
愛と誇りを持てる組織で、技術の先にある幸せを見据えてほしい
――挽野さんが見てこられた「伸びる組織」に共通するカルチャーはありますか?
挽野:働くスタッフ一人一人が、自分たちの出す具体的なアウトプットに対して、ものすごく強い「愛」と「誇り」を持っていることです。自分たちの製品がリアルな空間で誰かの役に立ち、貢献できているという強い自負がある組織は、やはり確実に伸びていきますね。
私が採用面接で履歴書以上に重視するのも、まさにそこです。当社が求めている企業としての価値観や貢献意識と、その人の本質的な価値観が本当に合致しているかどうか。
今の時代、面接の会話でいくら上手に演技をして取り繕おうとしても、アセスメントツール(適性検査)などを併用すれば、その人の本質的な整合性はおのずと見えてしまいます。だからこそ、小手先の就活テクニックではなく、自分の本質的な好奇心や価値観がどこにあるのかを、自分自身で冷静に見極めておくことが何より大切になります。
どうせ仕事をやって稼いで生きていかなきゃいけないのであれば、そこに少しでも遊び心を見いだした方がいいですし、仕事を通じて人を理解していく方が、人生は圧倒的に楽しくなります。
若いエンジニアの皆さんも、一度オフィスを出て、リアルな世界のユーザーに目を向けてみてはどうでしょう。技術の先にある日常的な幸せを想像し、自ら正しい問いを立てていくこと。その思考の転換こそが、AI時代に淘汰されない、真に強いキャリアの自立へとつながっていきます。
■おすすめの書籍
『論理的思考とは何か』渡邊雅子(岩波新書)
大学院の主任教授に紹介されて読んだ本ですが、大変面白く、あっという間に読み終えてしまいました。日本、アメリカ、フランス、イランという4つの国における論理的思考の違いを、社会の論理、経済の論理、政治の論理、法技術の論理という観点から整理しており、非常に刺激を受けました。エンジニア出身の私は「論理は普遍的なものだ」と考えがちでしたが、論理の組み立て方や納得の仕方にも文化的背景があるのだと気付かされました。
『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?』今井むつみ(日経BP)
iRobot米国本社に対して同じ説明を何度繰り返しても、なかなか伝わらないと悩んでいた時期に出会った本です。認知科学の観点から、人はそれぞれ異なる思い込みや前提を持っており、単に正しく説明すれば伝わるわけではないことを教えてくれました。「伝わらない」のは相手の理解力の問題ではなく、お互いの前提や認知の枠組みが違うからなのだと納得でき、同じ悩みを抱えていた仲間にも勧めたところ、多くの人が大きな気付きを得ていました。
これらの本に共通しているのは、技術や論理だけでは解けない問題に向き合う視点を与えてくれたという点です。論理的思考はキャリアの土台ですが、経営の現場では、人の認知、文化、組織の力学、社会の公正さといった、簡単には割り切れないテーマに向き合う必要があります。

