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ゲームカルチャーの世界には、ひとつの都市伝説がある。それは1983年のアタリショックにまつわるものだ。ドキュメンタリー映画「ATARI GAME OVER」を基に、70~80年代のゲーム市場を席巻した米ATARI社の挫折への道のり、そして同社の命運を分けたとされるクソゲーの謎に迫る。(前編)
砂漠に埋められた数百万本のゲームカセット?ドキュメンタリー映画「ATARI GAME OVER」
なんとも楽しい宝探しドキュメンタリー映画だ。
1977年に発売された世界初のテレビゲーム機「アタリ2600」は、全米の子供たちの間で爆発的に売れ、数々の名作ゲームが誕生し、「テレビゲームの歴史」が始まった。
しかし、このアタリブームは、1982年のクリスマスシーズンに終わりを告げる。なぜか、突然テレビゲームが売れなくなり、ゲーム市場は崩壊。アタリは売れ残ったゲームカセット数百万本を、ニューメキシコ州の砂漠の中にある廃棄物処分場に埋めたというのだ。しかも、作業は夜中に行われ、コンクリート壁で密閉するという手の込みようだった。
この話は、「アタリショック」と呼ばれ、都市伝説となった。ゲーム市場が突然崩壊したのは事実だが、「売れ残りを砂漠に埋めた」という話はさすがにデマなのではないかと誰もが思っていた。この映画は、この都市伝説が本当かどうかを調査していく。そして、ついにアラモゴード市の廃棄物処分場で、大掛かりな発掘作業が始まる…。
米・ニューメキシコ州アラモゴードでの発掘作業
アタリショックをバネに躍進した「世界の任天堂」
このアタリの突然の崩壊=アタリショックは日本にも関係をしている。京都の玩具会社「任天堂」は、米国でのアタリブームを見て、アタリ2600のライバル製品であったコレコビジョンを輸入して、任天堂のテレビゲーム機として発売しようと考えた。しかし、コレコ社との契約がまとまらず断念。任天堂は、最も売れているアタリ2600を徹底研究して、独自にテレビゲーム機を開発することを決意する。これがファミリーコンピュータ=ファミコンとなって、日本で大ブームとなり、日本のテレビゲームの歴史が始まる。
任天堂の山内溥社長は、関係者にアタリショックの物語を繰り返し話し、ゲーム市場を崩壊させないためには、ゲームソフトの質を維持する仕組みが必要だとして、ファミコンのゲームソフトの発売の可否は、すべて任天堂が決定できる仕組みを作り上げた。これが任天堂に莫大な利益をもたらすとともに、性表現、暴力表現のあるゲームを排除し、任天堂は「親子で遊べる」安心のブランドを築き上げることに成功した。
もちろん、ファミコン市場は崩壊することなく、それどころか1985年にはNESとして北米で発売され、大ヒット。アタリショックで空白になっていた市場をまんまと奪い取り、「世界の任天堂」に成長をした。
1本のクソゲーがゲーム市場を崩壊させた?
アタリショックはなぜ起きたのだろうか。ゲームカルチャーの世界で伝えられる都市伝説によるとこうだ。「アタリは、鳴り物入りのゲーム『ET』を開発し、一気に600万本を製造した。ところが、1982年のクリスマスシーズンになってみると、わずか100万本しか売れなかった。なぜなら、市場最悪のクソゲーだったからだ。ユーザーのゲーム熱は一気に冷め、他のゲームも売れなくなった。アタリは、その事実を隠蔽するために、不良在庫になったゲームカセットを深夜密かに砂漠に埋めたのだ」となっている。
このストーリーこそ、都市伝説なのだが、厄介なのはところどころ真実が含まれていることだ。1982年にゲーム市場が崩壊をしたのも本当だし、「ET」がクソゲーであることも本当だ(映画の中で、開発をした張本人がクソゲーだと認めている)。
やんちゃなガレージカンパニー「アタリ」
しかし、本当の原因は、やんちゃなスタートアップ企業が、大人の企業になったことによる副作用によるものだ。
アタリは、ディズニーランドで働くことを夢見ていたノーラン・ブッシュネルにより創業された。「ポン」(テーブルテニス)、「ブレイクアウト」(ブロック崩し)などのアーケードゲームで成功し、急成長。しかし、社内はヒッピーカルチャーそのままだった。製造工場内では、ジェファーソン・エアプレーンやグレイトフル・デッドといったサイケデリックロックが大音量でかかり、休憩時間にはマリファナが配給された。金曜の午後はビアパーティーが行われ、社長のブッシュネルは牛のかぶり物で登場し、胸から腹におしゃぶりを並べてつけて、社員がそのおしゃぶりを吸いまくるという乱痴気騒ぎが行われていた。
めちゃくちゃだけど、最高に楽しくて、クリエイティブ。この会社にどうしても入社させろと言って、エントランスの前で座り込みをしたヒッピー風の大学生までいた。彼の名は、スティーブ・ジョブズ。アタリ退社後に、アップルを創業することになる。
atari創業者 ノーランブッシュネル
ワーナーへの身売りがアタリショックの遠因となる
パブやゲームセンターに置くアーケードゲームを製造していたアタリは、事業を拡大して、家庭用テレビゲームの製造に乗り出そうと考えた。しかし、問題になるのは資金だった。アーケードゲームは1台あたりの価格は高いが受注生産。家庭用テレビゲームは1台当たりの価格は安いが、大量にあらかじめ製造しておかなければならない。莫大な資金が必要になった。
しかし、従業員が休憩時間にマリファナを吸ってしまうような企業に出資しようと考える投資家はいなかった。ブッシュネルが頼ったのが、映画会社を中心にしたワーナー・コミュニケーションズ(現タイムワーナー)への身売り話だった。身売りといっても、ブッシュネルがそのまま社長を務める子会社化で、家庭用テレビゲームを製造する資金2800万ドルを提供してくれる。ブッシュネルは、この話に飛びついた(後年、この判断は間違っていたと述懐している)。
ワーナーは、アタリの経営陣に、スーツを着た人間を送り込んできた。彼ら、スーツ族は、Tシャツとジーンズ姿で仕事をし、ロック音楽を聴きながらマリファナを楽しむアタリアン(アタリ社のカルチャーに染まった人)の姿を目にする度に、眉間にイナズマが走る。スーツ族は自分の仕事をしようとした。ここからアタリはおかしくなり、アタリショックへと突き進んでいくことになる。
クリエイティブよりも経営の安定
1977年に発売された家庭用ゲーム機「アタリ2600」は、順調に売り上げを伸ばしていった。「アステロイド」「ナイトドライバー」「ミサイルコマンド」というヒットゲームが登場したからだ。
しかし、1980年になって、ヒットゲームの様相が違ってきた。日本のタイトーが開発した「スペースインベーダー」が桁違いのヒットとなったのだ。スペースインベーダーは、日本で社会現象となるほど大ヒットとなっていて、これをアタリ2600用のゲームとして発売したところ、「スペースインベーダーを遊ぶためにアタリ2600本体を購入する」人が続出をするキラーソフトとなった。
これは、生粋のアタリアンたちにとっては一種の屈辱だった。自分たちが考えて開発したゲームよりも、極東の小さな国で生まれたゲームの方が桁違いに受けてしまったのだから、プライドが傷ついた。しかし、ワーナーのスーツ族にとってはお気に入りとなった。なぜなら、すでに売れているゲームをアタリ2600用に移植をして発売すれば、販売数が読める。安定した経営ができると考えたのだ。
後編へ続く