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情報セキュリティにおける昨年2017年の重大ニュースに「WannaCry」「Petya」といったワーム型ランサムウェアの脅威が挙げられます。職務上、刻々と変化する情報を追いまくる羽目になった方も多いことかと思いますが、ここでウクライナという国名を何度も目にされたのではないでしょうか。
もっともここ数年、同国を巡るサイバーインシデントは話題に事欠かず、馴染みが薄いわりに頻出する国、というのが個人的な印象です。果たしてウクライナとはどんな国で、事件の背景には何が広がっているのでしょうか。シリーズ2回目は、近代におけるロシアとウクライナの歴史的な確執について辿ります。
前回1/3からの続き
1.ロシア帝政の崩壊と独立戦争
コサックの自治の時代を経て、やがてはロシアとオーストリアの支配下に置かれたウクライナの地ですが、第一次世界大戦の最中に起こった社会主義革命によるロシア帝政の崩壊、続くレーニン主導の強硬な共産主義の台頭によって、イデオロギーと民族自決のテーマが複雑に絡み合う内戦の火蓋が切られます。
ごく僅かな期間ではあるものの、この地にウクライナ人民共和国なる初の独立国家も誕生、ドイツに頼ってソビエトを駆逐するなどの動きもありました。しかし逆にドイツに散々利用された挙句、そのドイツも敗戦。結局はソビエト政府に牛耳られることになります。
一方、西部の独立派も、オーストリアの崩壊後に進出してきた仇敵ポーランドを相手に立ち上がりますが、周辺諸国の支援を得られないまま、こちらもポーランドの支配下に収まります。
50フリヴニャ紙幣に描かれる独立国家「ウクライナ人民共和国」の初代大統領ミハイロ・フルシェフスキー(1866-1934)。
現在のウクライナは、この国家を継承したものとされる。
By NBU (Скан) [Public domain], via Wikimedia Commons
2.スターリンと人工飢饉ホロドモール
倒れる農民と慣れた様子の通行人。ウクライナ東部の都市ハリコフで撮影。(1933年)Alexander Wienerberger [Public domain], via Wikimedia Commons
激しい抗戦を行いながらも、ソビエト連邦へ”自由意志”の名の下に加入する運びとなったウクライナ・ソビエト社会主義共和国。その後、第二次世界大戦が勃発するまでの間に起こったとされる、ある飢饉のエピソードは、ウクライナの反露感情を語る上で度々取り上げられることのひとつです。
レーニンの死後、ソビエトの体制はスターリンへと引き継がれます。スターリンは、国力の強化と更なる共産化を推進すべく「農業の集団化」を決行しました。これによって、当時のウクライナにおける多数派でもあった農家の人々は、ソビエトの計画経済の歯車に組み込まれてしまいます。
ちなみにスターリンは、この「農業の集団化」によって農民と土地を切り離すことができれば、彼らの民族志向をも破壊できると考えていた節があり、抵抗する人々には徹底的な弾圧を加えたとされています。
混乱するウクライナの農業基盤、このタイミングに大凶作を迎える不幸も重なりますが、ソビエト政府は相も変わらず過酷な収穫高を提示します。ノルマの徴収後、生産者に残ったものは、ほんの僅かな農作物です。やがてこれは、ウクライナに数百万人規模の死者をもたらす大飢饉へと発展していきます。この時のソビエト政府の意図として、輸出用の農作物を確保すること以上に、ウクライナ民族を殲滅することで民族問題の解決を図ろうとしたのではないか、強いては「人工的な飢饉(ホロドモール)」を画策したのではないか、といった論争が両国間で長らく繰り広げられているのです。
これについて、ロシア政府は大飢饉の事実は認めているものの、他の共和国でも起こった事であり、ウクライナ人だけを狙った"ジェノサイド"の意図はなかったと否定しています。
3.第二次世界大戦の悲劇
ハーケンクロイツ旗を掲げるコサック部隊。独ソ戦では民族独立派とナチスドイツの共闘も見られた。Bundesarchiv, Bild 146-1975-099-15A / CC-BY-SA 3.0 [CC BY-SA 3.0 de], via Wikimedia Commons
内乱と独立への挫折、ソビエト政府からの弾圧など、数々の苦難を経た第一次世界大戦後のウクライナ。悲劇はまだまだ続きます。
第一次世界大戦後、敗戦国ドイツでは、多額の賠償金や世界恐慌の煽りを受けてナチ党が国内を掌握します。ナチ党は反共姿勢をちらつかせることで英仏の宥和な態度を引き出し、領土拡大を繰り広げます。
慢心するヒトラーでしたが、遂には従来の反共姿勢を翻してスターリンと独ソ不可侵条約を締結。ここで秘密裏に取り交わした約束を基に、ナチスドイツとソビエトは両国の間に位置するポーランドを折半する形で進攻します。ここでソビエトはポーランド配下にあったウクライナ人居留区(かつてのロシア領)を、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国に「再統合」します。
この後、ドイツは不可侵条約を破棄してソビエト領へと更なる進攻を開始。結果、ウクライナは大戦時に最も死者を輩出したとされる「独ソ戦争」の舞台と化すのです。やがてウクライナ全域がドイツの支配下に収まり、多くのウクライナ人が労働力として強制連行され、歴史的な経緯からこの地に多く居留したユダヤ人も粛清されるなどの蹂躙が繰り返されます。
尚、緒戦において、西ウクライナの民族主義者はナチスドイツをソビエトに共闘する勢力と捉え、これに加担する向きもあったようですが、了解を得ないまま独立宣言を発令した事で、これもまたナチスドイツによる弾圧の対象となってしまいます。
この「独ソ戦争」におけるナチスドイツの進出も、ソビエトの猛反撃をもってして戦線は徐々に後退、第二次世界大戦を迎える頃には、ソビエトが現在のウクライナの基盤を完成させる結果となったわけです。
4.フルシチョフの時代とクリミア半島
1961年のウィーン会談でジョン・F・ケネディと握手するフルシチョフ[Public domain], via Wikimedia Commons
ここで戦後のウクライナ・ソビエト社会主義共和国における、重要なエピソードを一つ紹介します。これは2014年に起こった”とある騒乱”の伏線になる出来事で、昨今のウクライナを理解する上で、一つの大きな要素になるかもしれません。
スターリンの死後、ソ連の権力はフルシチョフへと移譲されます。フルシチョフは過去のスターリン体制を批判して、アメリカとの協調路線を模索するなど、比較的多面な表情の持ち主でした。ウクライナにも理解があり、ウクライナ人を要人として起用するなどの譲歩的な姿勢を醸し出します。そして懐柔策の一環なのか、ソビエト・ロシアの配下にあった「クリミア半島」を、ソビエト・ウクライナに移管してしまったのです。
もちろん移管といっても、それはあくまでソビエトという枠組みを前提とした上での出来事です。これが後にウクライナの分離独立によって、クリミアがロシアより失われてしまうことを、当時は夢にも思っていなかったことでしょう。そして2014年、そのクリミアはウクライナから分離、再びロシアの重力圏へと引き戻されることになります。
3/3に続く