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2019.04.08

hackerアーリーデイズvol.3 ――アラン・ケイの発明した今という未来

※アイキャッチ画像: Marcin Wichary from San Francisco, U.S.A. [CC BY 2.0], via Wikimedia Commons

コンピューター科学周辺を学んだ人にとって、アラン・ケイの名前は有名すぎるほど有名だが、ではその功績となると、「ダイナブック構想」と「オブジェクト指向言語Smalltalk」というあたりになってしまう。

プログラマーにとっては、オブジェクト指向を形にしたということだけでも大きすぎる功績だが、一般の人にとっては、ハードウェアのコンセプトを提案し、新しいプログラミング言語を考案した程度のことで、なぜエンジニアや研究者がこれほどまでにアラン・ケイをリスペクトするのか、分かりづらいかもしれない。

それよりはむしろ、ケイたちがゼロックス・パロアルト研究所で試作していた「Alto」をアップルのスティーブ・ジョブズたちが見て、それがリサや後のMacにつながったというエピソードの方が、よほどドラマチックで、心に残ることだろう。

今日の姿を描写「A Personal Computer for Children of All Ages」

ケイの偉大さを理解したければ、ただ1つの論文を読むだけでいい。「A Personal Computer for Children of All Ages」(あらゆる世代の子どもたちのためのパーソナルコンピューター)というチャーミングなタイトルのものだ。

ケイはデジタルデバイスを「学びの道具」と捉えていたようで、学ぶ時には、年齢がいくつであっても、誰もが好奇心の強い子どもになってしまうのだという気持ちがタイトルに込められているのではないかと想像する。有志による日本語訳もネットで公開されている。論文というよりは、読みやすいエッセイのような形式で、この中で有名なダイナブックの構想が語られている。

冒頭では、ダイナブックを使う人々のストーリーが語られる。

9歳のジミーとベスは、公園でそれぞれのダイナブックを持ち寄り、宇宙戦争というゲームで遊んでいる。しかし、ゲームに負けたジミーは不満を口にする。それは宇宙船の動きが太陽の重力の影響を無視したものになっていて、リアルではないというのだ。ベスはすぐに宇宙戦争のソースコードを開いて、数行を書き直してみるがうまくいかない。

二人はヤコブソン先生にどうしたらいいかを相談することにした。ヤコブソン先生は、二人に図書館で調べてみることを勧めた。すると、二人はダイナブックを教室のLIBLINKに接続し、そこから図書館に接続をして調べ始める。そして、宇宙戦争のソースコードを修正し、再びゲームに夢中になる。

一方、ベスの父親は、会議に出席するため飛行機に乗っていた。飛行機の中でダイナブックに保存されている資料を読み、音声でコメントをつけていく。空港に着くと、ストーリー販売機でストーリーを購入しようとする。しかし、料金をチャージしていなかったため、買うことができなかった。

アラン・ケイの論文につけられた挿絵。9歳の子どもがダイナブックでゲームを楽しみ、自分でプログラムを修正する。
「A Personal Computer for Children of All Ages」より。

このようなストーリーが、愛らしいイラスト付きで語られる。現代の私たちにしてみたら、何ら違和感のない日常だ。9歳の子どもがプログラミングをするというところに違和感を感じる人もいるかもしれないが、それがScratchのようなビジュアルプログラミング言語であったとすれば、何ら驚くようなことではなくなっている

しかし、この論文が発表されたのは1972年、50年近く前のことなのだ。米国ではアポロ計画が完了し、ベトナムの北爆が再開され、ベトナムの戦火が再び激しくなる。日本ではグアム島で横井庄一さんが発見され、札幌五輪が開催され、あさま山荘事件が起き、佐藤栄作首相が退陣をし、世界初のパーソナル電卓「カシオミニ」が発売された。

そんな時代に、アラン・ケイという人は、今日のノートPCかタブレットのようなものを使うことが当たり前になる日常を想像していた。

決して絵空事ではなかったダイナブックという発想

しかし、ここまでであれば、ちょっとしたアマチュアSF作家にもできることだろう。「スマホはコンタクトレンズのサイズまで小さくなり、目に装着するようになる」などという妄想を口にすることは誰にでもできる。ケイは、次にダイナブックの仕様を語っていく。

全体サイズは紙のノートよりも小さく、重さは4ポンド(約1.8kg)よりも軽い。画面には妥当な画質の動画が表示でき、本と同じコントラストで印刷品質の文字が4000文字表示できる。リムーバブルな記憶装置に100万文字分または数時間分の音声データが保存可能。

ケーブルにより情報の転送が可能で、その速度は毎秒300Kビット。どこにでも持ち運びができ、ARPAネット(インターネットの前身)または双方向ケーブルテレビにより外の世界に接続が可能(しかも、ユーザーは真っ先に自分で広告除去フィルターを作るだろうと予言している!)。

バッテリー駆動であるために、プラズマパネルや外部CRTなどの表示装置は採用することができず、位相変化型液晶によるフラットディスプレイを使う。全体のピクセル数は1024×1024程度。

さらに、演算装置、記憶装置についても仕様が語られていく。

ケイの論文にあるダイナブックの図。
右側にスタイラスや記憶装置を挿入できるようになっており、技術が進めばキーボードのソフトウェア化もできるとしている。まるで現在のタブレットなのだ。
「A Personal Computer for Children of All Ages」より。

このような仕様についても、最新技術について知識がある人であれば、ある程度は語ることができるかもしれない。しかし、ケイが決定的に違うのが、販売価格を500ドルと定め、その範囲内で仕様を定めている点だ。

なぜ、ダイナブックは500ドルでなければならないのか。当時、子ども1人に支出される教育費は年850ドル程度で、教科書には年90ドルから95ドル程度が支出されている。ダイナブックの製品寿命が40ヶ月程度であるということを考えると、教科書代が不要になるのだから、300ドル程度はどの家庭も負担できる。このようなユーザーの経済から逆算をして、価格を定め、そのコストの範囲内で仕様を定めていったのだ。

ケイの功績は「ダイナブックを構想」で、言葉としては間違っていないが、「構想」と呼ぶにはあまりにも詳しすぎる。本気で作ろうとしていたとしか思えない。実際、ケイはパロアルト研究所で、Smalltalk開発環境を設計し、これを試作マシンAltoの上で走らせることになる。今日のPCやMacのように、アイコンをマウスで操作するというGUI環境だった。ケイはこのアルトを「暫定ダイナブック」と呼んでいたので、ダイナブックのソフトウェア部分の開発に着手をしていたことになる。

ケイの有名すぎる言葉に「未来を予測する最善の方法は、それを発明してしまうことだ」がある。ケイは自分の言葉通り、ダイナブックを本気で開発していたのだ。

Altoのエミュレーターで起動したsmalltalk環境
SUMIM.ST [CC BY-SA 4.0], via Wikimedia Commons

現代へと受け継がれるダイナブックの遺伝子

しかし、ダイナブックという製品がこの世に出ることはなかった。後に東芝がノートPCの商品名に「ダイナブック」という名前を使ったが、もちろんケイのダイナブックとはまったく別物だ。ケイのダイナブックは形にはならなかったが、そのコンセプトはさまざまなところに影響を与えている。

例えば、この論文のキーボードのところを読んでみていただきたい。キーボードは一切の可動部品をやめて感圧式とするとされていて、可動部品を持たないのであればいっそのことキーボードそのものをなくしてしまうことも可能だと述べている。いわゆるソフトウェアキーボードにすることも可能だというのだ。

マルチタッチディスプレイの技術がない当時、どうやってソフトウェアキーボードを可能にするのか。ディスプレパネルの四隅にひずみゲージが設けられていて、これをセンシングすることで3/16インチ以内(約5mm)の精度で、タッチされた場所を特定することができるとしている。ソフトウェアキーボードにすれば、キートップを適切な文字に変えることもでき、タッチするだけで利用者IDを入力することもできるようになる。

まるでiPadのようなタブレットなのだ。アップルは特にダイナブックに言及はしていないが、大きな影響を受けていることは疑いようがない。

また、MITのニコラス・ネグロポンテ教授は、ダイナブックの発想を受け継ぎ、OLPCというNPOを立ち上げている。OLPCとはOne Laptop per Child(子どもに1台のラップトップ)の略だ。俗にメディアでは「100ドルPC」などという呼び方もされる。

これは途上国の子どもたちに教育機会を与えるプロジェクトだ。ネット接続できるPCを100ドルで開発をし、先進国の消費者に200ドルで2台を買ってもらう。1台は自分が使い、もう1台は途上国の子どもたちのために寄付されるというプロジェクトで、タブレットPC「XO-4 Touch」を中心に現在も活動は続いている。このプロジェクトも軽量ノートPCやグーグルクロームブックなどに大きな影響を与えている。

アラン・ケイも協力したOLPCが開発したXO-4 Touch。低価格で利用できるPCで、途上国の子どもたちに教育機会を与えるためのプロジェクトだ。
By OLPC [CC BY 3.0], via wiki.laptop.org

ダイナブックそのものが形になることは結局なかったが、ダイナブックの遺伝子は多くのモバイル製品の中で活きている。アラン・ケイは、「今という未来」を発明することに大きな貢献をした。だから多くの人からリスペクトされるのだ。

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