なぜ中国のモノづくりは進化した? コピー商品からイノベーションが生まれた理由

かつては「下請け製造」「模倣製品ばかり」といったネガティブなイメージがあった中国のモノづくり。しかし最近では、世界をリードする新しい技術や製品が次々と生み出されています。中国のモノづくりはどのように進化し、イノベーションを起こしてきたのでしょうか。
そこで、株式会社スイッチサイエンス 高須正和さんに、中国のモノづくり事情とこれからの日本のモノづくりおけるヒントをお聞きしました。

高須正和さん
IoT開発ツールの開発/販売をしている株式会社スイッチサイエンスのGlobal Business Developmentとして、中国深圳をベースに世界の様々なメイカー向けイベントに参加し、パートナーを開拓している。日中の技術愛好家達とのコミュニティ「ニコ技深圳コミュニティ」の共同創業者。ほか、早稲田大学リサーチイノベーションセンター招聘研究員、ガレージスミダラボ主席研究員、大公坊創客基地(中国深圳の国家級インキュベータ)メンターなど。
https://note.com/takasu/n/n411063be9634

下請け製造から自社開発へ 中国のモノづくりの変化

――本日はよろしくお願いします。高須さんは長年、中国(深圳)を拠点に活動されていることから、ご自身の経験も交えながら中国のモノづくりにまつわるお話を聞ければと思います。まずは、中国のモノづくりの変貌について、時代の変化と合わせて教えていただけますか?

中国(深圳)でのモノづくりについては、現地で20年近くモノづくりに取り組んでいる藤岡淳一さんの著書「ハードウェアのシリコンバレー深圳に学ぶ」にまとめられています。
歴史の話はそこからの紹介になるのですが、中国全体のモノづくりは、大躍進政策(1958〜1961年に行われた農業と工業の大増産政策)と文化大革命(1966年から1976年に行われた文化改革運動)の失敗、その後、鄧小平が始めた改革開放政策(1978年から実施された経済政策)により大きく変化していきました。1970年代後半より、深圳にも経済特区が設置され、外資企業を誘致して工場が続々と建設され、製造業の街へと変貌していきました。

――1970年代〜80年代は始まりの時代だったのですね。

ただ、当時の中国は「仕事を探す」「人を雇う」「給料を決める」といった概念がありませんでした。もともと共産主義の国ですからね。香港や海外の人たちが資本主義の制度を教えて、契約に関する法律を作っていったわけです。
改革開放後は、本格的に海外から技術が入ってきましたが、共産主義の考えから外の情報が一般に広まることを懸念していました。そこで、当初は製品のサンプル、材料、技術を海外から持ち込んで製造し、製品はすべて海外に輸出する「来料加工」からスタートしました。当時は独自ブランドは、ほぼなかったようですね。1980年代後半から1990年代前半は、改革開放政策の影響もあり、知識や技術の向上、新しい工場の建設など次々と技術移転が起こり始めます。中国国内も市場として成り立つようになり、当時は「華強三洋」という三洋電機と中国との合弁会社のラジカセが、中国人の間で憧れのブランドだったと聞きます。

――改革開放政策とその後の技術移転が進んだことによって、「来料加工」から中国で一部設計をする下請け生産が主流になっていくのでしょうか。

そうですね。1990年代頃から、海外の企業が中国国内で会社を作ったり、中国人が自分たちで会社を作り始め、OEM生産がはじまります。2000年代になると、OEMで作った商品をコピーし、独自ブランドとして売り出すメーカーも現れてきました。中国の経済も拡大し、中国が単なる労働力だけでなく、市場としても魅力が出てきました。それが、2010年代になると「他社とよく似ているけど、一応自社開発ですよ」と言い張れる製品が登場してきます。

――それまではほとんど海外輸出だったけど、中国人が使う物を製造し始めた、と。

はい、海外とのつながりが強くなったことも影響しているでしょう。DVDプレーヤー、MP3プレーヤーなど日本の大手メーカーの商品よりもはるかに安い価格で中国国内の市場に出てきました。 すると、それらを日本の市場でも販売する動きが出てきました。大手量販店のプライベートブランドが売り出しましたね。2010年代から、中国のモノづくりが進化し、独自ブランドが海外でも売れるようになってきました。

出典:「ハードウェアのシリコンバレー深圳に学ぶ」、JENESIS深圳

「コピー商品」から「独自性のある商品」へ

――国内向けの製品を、海外へ輸出していくようになったのですね。それに伴い「製品のコピー」というイメージが浸透していったのでしょうか?

認知度の高いブランド品や人気商品に似せて作られた、いわゆる「パチもん」は80年代からありましたが、2000~2010年代が一番多かったかもしれません。かつては、中国人が自力ではデザインできなかったのものの、2000年代になると、中国人が設計や開発を始めます。でも世界に向けて売るノウハウがないので、「偽ソニー」みたいなコピー商品ができるわけです。

――でも、特許の問題がありますよね?

2000年以前の中国は、物を作る知恵はついたけど、特に国内向けではブランドや特許・知的財産という概念が薄かったのです。また、当時の中国市場は海外の一流ブランドにとって魅力的な市場でなかったため、中国国内での偽ブランドが、本家から見ても大きな問題になりづらかった。その両方がコピー製品全盛時代の背景だったと思います。ちょうどその頃、マーケティングの概念も生まれ、外国の展示会に中国企業がどんどん出展してきました。

――マーケティングの概念が生まれてから、他社との差別化を図るようになったのですか?

差別化って、もう少し高度な概念ですよね。2000年代は、同じような商品だけど解像度が違うとか、ボタンが1つ増えたとか、コピー商品の中に小さなイノベーションが大量に発生しました。携帯電話でいえば「ひげそり付き」「バーコードスキャナー付き」とか。
会社に圧倒的な供給能力があるなら、王道の安くて良いものを作る一方、スタートアップ企業でブランド力も宣伝力もないと、突拍子もない発想に行くわけですよね。それはあらゆるクリエイティビティに共通するんじゃないかと思っていて。最近は「独自性のある会社の方がいい」というトレンドに向かっている気がします。

――その流れが出てきたきっかけは?

結局のところ、独自性は「人件費」と「できるもの」のバランスで決まります。人件費が安くてまあまあ良いものが作れる状態だと、全力でコピーした方が儲かる。だから「いま流行っているものと機能はほとんど変わらず、値段は5分の1」といった、プライベートブランドのような商品を作るわけです。しかし原価が上がってくると販売価格も上がり、「本物とほとんど値段が同じじゃ売れないだろう」となる。結果、独自性が求められるわけです。

中国政府の政策によるスタートアップブーム

――中国のモノづくりが時代によってどう変わっていったのかとてもよくわかりました。最近イノベーションを起こし始めている中国企業は、いつどういったきっかけで生まれたのでしょうか?

中国政府が2014~2015年ぐらいに、それまでも残っていた計画経済のやり方を変えて、スタートアップ支援ではシリコンバレーのやり方である多産多死を真似したんです。起業や金融(資金提供)への規制が残っていたのをどんどん撤廃し、「ベンチャーキャピタルOK」「どんどん起業してよし、税金も優遇します」などの政策によって、スタートアップブームが始まりました。2016年には、世界のプライベート・エクイティによるベンチャー投資の7割が中国という状況になったんです。

――起業ブームによって、エンジニアのモノづくりに対する意識は変わっていったのでしょうか?

この頃から、エンジニアが起業するのが盛んになりました。しかも投資によって、しばらくの間は赤字でも食えるので、より冒険的な製品を出せる。食べていくので精一杯だった20世紀中国の起業家と違い、エンジニアから「これで世界を変えてやる」みたいな発想が出てきました。

――中国国内のエンジニアや消費者自身にはどんな変化がありましたか?

中国全体の価値観が大きく変わったと思います。それまでの中国は、医者や金融関係が偉かったんですよ。でも今は「エンジニアでスタートアップをやったほうが良い」という雰囲気になってきましたね。 また、製品のクオリティも上がり、中国国内の消費者による外国製品信仰が減ってきていますね。富裕層や30~40代の中国人は憧れを抱いていた外国製品を買う一方、20代は「スマホならファーウェイが世界で一番いい」と捉えているようです。

M5Stackが日本のエンジニアにウケた理由

――若い世代になればなるほど、外国製品に対する憧れが薄れるわけですね。実際に中国でイノベーションを起こし、変化していった企業の実例があれば教えていただけますか。

M5Stack(エムファイブスタック)ですね。2015年、まさに起業ブームのころに、ジミー・ライという中国企業の電力会社で働いていたエンジニアが作った会社です。
彼は研究開発部門で、いろいろなスマートメーターを作っていました。でも「7割ぐらいまでは設計が同じだし、毎回ゼロから作るのは面倒」「スマートメーターに必要な画面や電源制御、インターフェース、Wi-Fi機能をまとめて1個の開発キットを作ってみてはどうか」と考えていたんです。

――その後、すぐに創業〜製品開発を行っていったのでしょうか?

私がジミーの製品をイベントで見かけたのは2015年ごろでしたが、当時の彼は起業したばかりで、経営や販売に関するノウハウなどはほとんど持っていなかったと聞きます。その後、彼はアクセラレーター※からモノづくりやビジネスを学び、2017年にM5Stackを世の中に発表したんです。それが、日本のユーザーにウケて、今は世界中でも売れています。
※スタートアップや起業家へ出資・サポートし、事業成長を促進する人材・団体・プログラム。

――M5Stackがヒットしたポイントは?

機能がうまく「パッケージされた」開発ボードであったことですね。過去にも大手のメーカーをはじめ様々な企業が開発ボードを作ってきましたが、必要なものが足りなかったり余計なものがついていたりして、なかなか受け入れられなかったんですね。エンジニアたちが使うものだからそれぞれで用途は違うし、結果的に「やっぱりゼロから作った方がいい」となりがちだった。ジミーは、そんなエンジニアたちの苦労の様子を見て、必要な機能を取捨選択してパッケージングしたんです。それに値段も安くて取り入れやすかった。

――ジミーさんの発想により、エンジニアが抱いていた問題点をうまく解消したんですね。どのようにして日本で広まっていったのですか?

僕は2017年に深圳のメイカーフェアで見て、「面白そうだからスイッチサイエンスで輸入販売しよう」となり、スイッチサイエンスを通して日本でも販売しました。すると、日本人のユーザーがブログでM5Stackのことを書いてくれ、ナレッジがインターネット上にたまっていき、ガイド本なども出版されました。次第に大学の授業でも使われるようになった。ユーザーたちによるコミュニティが自然とできていったんですよね。コミュニティって意図的につくれるものではありません。日本は、無名でも良いものは受け入れ・共有される土壌であったことも影響しています。

――日本で人気が出て、会社が成長していく中で、M5Stack社自身にどんな変化がありましたか?

ジミーは当初、「売れる製品で大きなシェアを取りに行こう」としていた。たとえばSTEM教育のブームに乗った教育ツールとかね。だけどマーケットと直接対話するようになってからは「ユーザーであるエンジニアが一番大事だ」となりましたね。M5Stack本社へ行くと、日本のユーザー(エンジニア)のツイートや不具合報告が貼られていますよ。わざわざ日本語を中国語に訳して、彼らの一言一言を参考にしながら日々の開発に活かしているんです。「日本のユーザー(エンジニア)が褒める機能は、その後世界で売れる」という意識はあるようです。

――なぜ日本のシェアが一番高いのでしょうか?

日本は趣味エンジニアの数がいちばん多くて、クオリティが高いんです。海外の趣味エンジニアは、大企業に入ると仕事である程度満たされてしまって、あんまり趣味のプロジェクトをやらないんですよね。日本の大手メーカーで働いている人は年齢を重ねるにつれ自ら手を動かすことが少なくなるので、「なにか作りたくてしょうがない」と開発ボードを買ってくれるんです。

――日本人の働き方やモノづくりの意識にうまく刺さっている、と。

エンジニア向け製品だと、きちんと会社がユーザに向き合っていれば、不良品でもむしろ解析して、バグレポートをあげてくれます。あとは、ソフトウェアをGitHubで公開しておけば、直したソフトウェアを送ってくれたり、「こう作った方がいいですよ」とアドバイスをもらえたりする。エンジニア向け製品を作ろうと思ったときの日本は、素晴らしい市場なんですよ。

オープンであることで、イノベーションが加速していく

――長年、中国のエンジニアや開発市場と接してきた高須さんから見て、日本のエンジニアが参考になると思うポイントを教えてください。

とにかく「売ること」ですね。売ることで見えてくるものがあるんです。

――中国の売り方は、日本とどこが違うのでしょうか?

一番大きいのは、法律や市場、品質基準が日本に比べると緩いので雑なものでも売りだせることです。年々マシになってきてはいるけど、日本と比べるとまだ遅れはあります。パーフェクトにやろうと思うと、どんどんイノベーションが起こりにくくなります。例えば日本で新しい自動車を作ろうとすると、安全面の検証をするためにさまざまな実験をしなければなりません。パーフェクトな商品が生まれる一方、スタートアップは参入しにくくなりますよね。それはあらゆる分野で起こることです。

――未完成なものでも売ることで、イノベーションが起こるきっかけになるんですね。高須さんは、どちらの売り方がいいと思いますか?

個人的には、変なものが出てきた方がいいですよ。ただ、そこはバランスの問題かなと思います。エンジニア向けなら、不具合があってもある程度は許容性があり、結果的に技術的な進化につながることもあります。
飲食店に例えれば、僕は「お腹壊してもいいから、面白いメニューがたくさんある店の方が好きだ」と思ってしまうけど、日本全体がそうなって欲しいかと言われると……難しいところですね。

――今回のテーマである真似やコピーという視点で中国のモノづくりを見た場合に、現地の人々の意識は変わってきていますか?

商標がまともに適用されるようになって以降は、ニセモノという概念が初めて中国で生まれた気がします。そっくりなものを安く作るのは、今でもニセモノの範疇に入らないことが多い。他の会社が10万円で発売したものをマネして、「性能はあまり変わらないけど5万円です」と販売したら、それはもうイノベーションですよね。一方で、「他人のブランドにタダ乗り」みたいな商品はどんどん取り締まられていますね。

――丸パクリは駄目だけど、コピーや真似から生まれるものもある、と。

M5Stackはオープンソースハードウェアとうたっているけど、いくつかはクローズにしています。なぜかというと、丸パクリをする会社がいるから。まったく同じ名前で売られると困るので、そこは事業戦略としてやらざるを得ません。
ビジネスモデル上クローズにしなければいけないものだけ隠して、残りは全部オープンというのが中国のやり方。それはアメリカと同じです。そのほうがシェアも取れるし、他のエンジニアがどんどん力を貸してくれる。その点は、日本はクローズにしてしまうという考えが強いかもしれません。

――中国は、オープンにするタイミングが早かったのですか?

そこは単純に、知的財産管理が緩すぎてクローズドという概念がなかったと考えています。設計は流出するものだ、と。

――結果的には、それが良い方向へ進んでいると。

欧米は、まず著作権を作り、知的財産という概念を作り、それを守る法律を作りました。でも「行き過ぎた」「イノベーションがうまく進まない」となり、LinuxやGoogleのようなオープンソースを旗印にするソフトウェアが注目されているわけです。
中国は、そもそも知的財産の概念があまり無かったからこそ、オープンソースの良さが回っていったのです。世界的なオープンイノベーションの流れと、知的財産の概念はなかったけど技術力を身に着けた中国が、いい感じで合致している気がしますね。

――とても面白い流れですね。知的財産の概念がなかったことが結果的に世界の流れに合ってきたと。

日本だと、オープンソースに詳しい人と知財保護のプロ(弁理士、弁護士など)は別の集団に見えます。弁護士や弁理士は、守る方には詳しいけど、オープンにする方は弱いので。でも中国は、オープンとクローズの概念が同時に入ってきたので、プロの弁理士かつ特許の専門家が「これは特許」「こっちはクリエイティブコモンズ」「デファクトスタンダードを狙うならこっちがいいよ」「とりあえずシェアを全部取って、別のとこで儲けるならこのやり方で」と教えている。そういった考えはとても参考になりますね。

取材+文:村中貴士
編集:LIG

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